武田神社からもほど近い山間のなか。
そこに、戦国武将・武田信玄に深くゆかりのあるお寺、円光院(えんこういん)があります
甲府五山のひとつにも数えられるこのお寺は、武田信玄とその正室・三条夫人にゆかりの深い寺院であり、歴史的な価値と美しい景観を併せ持つスポットです。
今回は、そんな円光院の見どころや歴史、そして実際に訪れて感じた“ぽんすけ&こんぺい的”おすすめポイントをお届けします。
円光院ってどんなお寺?
創建:西暦1156~1158年(保元年間)
平安時代
宗派:臨済宗(妙心寺派)
山号:瑞巌山

円光院の始まりはご先祖・逸見太郎清光から
円光院はもともと、武田信玄のご先祖さまにあたる逸見太郎清光(へんみたろうきよみつ)が、保元年間(1156〜1158年ごろ)に建てたお寺なんです。
当時は「清光院(せいこういん)」という名前で、場所も今の笛吹市石和町(いさわちょう)にありました。
つまりね、円光院のはじまりって、信玄公よりもずーっと前の時代までさかのぼるんだよ。すごく歴史のある、由緒ただしいお寺なんだねぇ。
父を想って──武田信守が名付けた『成就院』」
室町時代、武田信玄のご先祖さまにあたる武田信守(のぶもり)が、父・武田信重(しげしげ)が宝徳2年(1450年)に亡くなったあと、供養のお寺(牌寺・はいじ)として、お寺の名前を「成就院(じょうじゅいん)」に改めました。
お父さんのためにお寺の名前を変えるなんて、この時から武田家の影響力が伺えるね。
信玄公が開いた禅の道 円光院と甲府五山の誕生

戦国時代、武田信玄公は臨済宗関山派に深く帰依し、禅の教えを政治や軍略に取り入れました。
そのため、甲府五山の一角として、永禄3年(1560年)、武田信玄公が京都から説三和尚(せっさんおしょう)をお招きし、この場所にお寺を移して新たに開きました。
妻の供養のために──『円光院』という名の由来
現在の寺号の起こりは、信玄公正室三条夫人が元亀元年(1570)7月28日に逝去し、当院に葬送された時の法名から、瑞巖山円光護持禅院と改称されました。
三条夫人について

武田信玄の正室で公家三条左大臣公頼の次女として大永元年(1521年)に生まれました。
母は高顕院、姉は細川晴元夫人、妹は本願寺光佐上人の裏方です。
16歳(天文5年(1536年))で信玄の正室となり長男義信、次男竜宝、三男信之、長女黄梅院(北条氏政夫人)、次女・見性院(穴山梅雪夫人)を儲け、元亀元年(1570)、50歳で世を去りました。
京都の大徳寺に黄梅院っていう、綺麗な庭があるお寺があるけど、その北条氏政夫人のお母さんにあたる人なんだ。
火災からの復興と現在の円光院へ
円光院は延享3年(1746年)に火事でお堂を失いましたが、その後、宝暦年間(1751~1760年)に平岡代官によって再建されたと考えられています。現在の本堂は昭和52年に、庫裡は平成11年に整えられました。
甲府の山間に…円光院
本堂


昭和52年に建てられたんだね。
鐘・木板(もくはん)


常香炉(じょうこうろ)

仏足石(ぶっそくせき)

手水場


三条夫人の墓所(県指定史跡)

当時のまま、信玄公夫人のお墓が残っているよ。
鐘楼

庫裡


平成11年に建てられたからあたらしいね。
指定文化財
市町村指定

・刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)(32.5㎝)
・勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)(34.0㎝)
信玄公が戦のときにお守りとして大切にしていた2つの仏像があります。
ひとつは「刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)」で、四つの顔(忿怒形の顔を左右正面・菩薩形の顔を頭上)と左右五本ずつの腕を持ち、獅子に乗った勇ましい姿をしています。
もうひとつは「勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)」で、白馬に乗り、錫杖を持ち、ふつうより多い二十五条の袈裟を身につけています。
もともとは居館であった躑躅が埼の館(現武田神社)内の毘沙門堂に祀り、戦いの際にも持ち出されていました。
信玄公が亡くなった天正元年(1573年)、この2体の仏像は、家臣である馬場美濃守信春に託され、現在のお寺(当院)に大切に納められました。
武田信玄公 火葬塚
円光院の近くには、武田信玄公のお墓があります。

駐車場とアクセスのワンポイント!
駐車場:あり
料金:無料
👉詳しい入口と駐車場まとめはこちらの記事で!
『甲府五山』お寺ごとの駐車場をまとめたよ!(円光院駐車場)
地図
ぽんすけのまとめ
円光院は、信玄公やそのご先祖さまたちの歴史がぎゅっとつまったお寺だったよ。
火葬塚もすぐ近くにあって、戦国のドラマを感じる場所だったなぁ。
静かで落ち着く雰囲気の中に、しっかりと時代の足跡が残ってるって感じ!
信玄公ファンにはたまらないスポットだよ〜。