信玄公御墓所(火葬塚)|3年隠された死

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3年間、死を隠した武将の秘密──信玄公御墓所の謎

信玄公のお墓がこんなところに!? しかも“火葬塚”ってなにやらミステリアスな響きだねぇ

円光院から南西へ400mほどの住宅地の中に武田信玄の墓所(火葬塚)があります。

信玄公は遺言で「自分の死を3年間は隠すように」と命じたため、家臣の土屋氏の屋敷だったこの場所で仮に埋葬され、火葬もここで行われたそうです。

そのため、地元では「信玄の火葬塚」とも呼ばれてきました。
また、昔は「魔縁塚(まえんづか)」とも言われ、不気味がられて、地元の人もあまり近づかなかったんだとか。

時がたって江戸時代の安永8年(1779年)、甲府の代官だった中井清太夫がここを掘ったところ、石の棺が出てきました。
その棺には信玄の法名(お坊さんとしての名前)が刻まれていたため、清太夫はすぐに江戸幕府に報告。
それによって、この場所が正式に「武田信玄公の墓」として認められました。

その後、信玄公を敬う旧臣の子孫たちがここに墓碑(お墓の石)を建て、今もその姿を見ることができます。

死を隠した理由 力を恐れた武将達

武田信玄公の死を隠すための場所だったんだ。
武田信玄公の死が戦乱の世に及ぼす影響がすごかったことが伺えるよ。

名だたる武将への牽制や、領民への不安を広がらないようにしたんだね。

どんな武将に恐れられていたの?

上杉謙信(うえすぎ けんしん)

  • 越後(今の新潟県)を治めた戦国大名。
  • 信玄とは「川中島の戦い」で有名なライバル関係。
  • お互いに一歩も譲らぬ知略と武勇の持ち主として、謙信自身も「敵ながら天晴れ」と認めるほどの存在でした。

武田信玄公のライバルと言ったら、上杉謙信公ってイメージがあるよね。

織田信長(おだ のぶなが)

  • 尾張(現在の愛知県)出身で、のちに天下統一を目指す。
  • 信玄が西へ進軍を始めた際、信長は非常に脅威を感じており、将軍・足利義昭と手を組んで信玄の牽制を図ったほど。
  • 信玄の死後は、その脅威から解放されたといわれています。

あの、織田信長さえ恐れたなんて。

徳川家康(とくがわ いえやす)

  • 三河(現在の愛知県東部)出身。のちの江戸幕府の創始者。
  • 三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗し、命からがら逃げ延びたことは有名です。
  • 家康は信玄のことを「化け物のように強い」と恐れていたとされます。

家康の敗北 三方ヶ原の戦いと自戒の絵

家康は31歳の時、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しました。この敗戦を忘れないため、家康はその姿を絵に描かせ、慢心を戒めるため生涯手元に置いたと言われています。絵は威厳ある権現像とは違い、疲れ切った家康の表情が描かれており、「顰(しかみ)像」とも呼ばれています。

徳川家康三方ヶ原戦役画像 文化遺産オンライン
家康の経験した負け戦とは三十一歳に当たる元亀三年(一五七二)十二月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。威厳のある堂々とし...

おもらししちゃったほど、恐怖したと言われているね。

北条氏康(ほうじょう うじやす)

  • 関東を支配していた大名で、小田原城の北条氏。
  • 武田信玄とは一時期同盟関係にあったが、領地争いで敵対。
  • 信玄の武力に対し、慎重に対応していた記録があります。

最初は同盟していたけど、武田信玄公が静岡の駿河や遠江にまでへ勢力を伸ばすと、相模、伊豆、駿河において権力を確立していた北条氏と敵対したりしたんだよ。

地図

武田信玄公の墓 · 〒400-0013 山梨県甲府市岩窪町
★★★★☆ · 史跡

ぽんすけのまとめ

信玄公は、自分の死を隠すように遺言して、家臣の屋敷で仮埋葬されたんだね。

江戸時代になって正式に「武田信玄公の墓」として認められたなんてびっくりだよ。

武田信玄公の死が秘密にされたのは、戦乱の世に及ぼす影響が伺えるね。

でも領民を守るためだったと考えると、優しい一面もあるんだね。

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